娘の不登校と団地暮らしの違和感から田舎暮らしへ
ー田舎暮らしは以前から考えていたんですか?
豊子:うん。当時、長女が登校拒否を起こしてて。「学校行くのイヤや〜!」ってしょっちゅう叫んでたんよ。田舎暮らしが娘に良い影響を与えるかも知れない、って思った。
移住してからは、小学校(現在は廃校)が近いし、アットホームな雰囲気だったから、娘も安心したみたいで元気に通うようになった。学校の窓から「ママー!」って呼ぶくらい(笑)。
豊子:娘だけじゃなく、私自身も都会や団地暮らしに違和感があったんよね。団地の重たい扉を開けると、色んな人に見られてる感じがしてね。うわさ話や悪口を聞くのもイヤだった。
ー孝夫さんは、豊子さんの気持ちを尊重して田舎移住を決めたんですか?
孝夫:そうやね。というか僕自身はあまりこだわりが無かったからノリで来た感じ(笑)。
ーそうだったんですね(笑)。日高川町は何がきっかけで知ったんですか?
豊子:テレビで移住者インタビューの番組を見たことがきっかけかな。
1992年ごろ、旧中津村(現日高川町)の「なかつ村移住者推進協議会」の会長さんと移住した方がお話されてたんだけど、それを見て「いい所やね〜。1回、日高川町に行ってみようか?」って家族で泊まりに来たの。
ー来てすぐに気に入りましたか?
豊子:そうやね。「ええとこやん!住みたいなぁ〜!」って思った。
孝夫:2回目に日高川町に来たときには、地元の業者さんに土地を案内してもらって、土地を借りて家を建てることを決めてた。
この場所は小学校の裏だし、郵便局も歩いていけるところにある。昔は、農協や役場の支所もあったし、ものすごい便利なとこだったんよ〜。
豊子:住むことを決めたのは良いけど「仕事はどうする?」ってパパ(孝夫さん)と、日高川の河原で話したのを覚えてる。
孝夫:当時、僕は大阪府の寝屋川市で教員をしてたんやけど、校長に転勤を頼みこんで和歌山県に一番近い学校に転勤させてもらった。あの時、校長が配慮してくれてありがたかったよ。
水害という自然の厳しさも体験
ー住み始めてからの日高川町の生活はどうでしたか?
孝夫:移住した翌月にいきなり土砂崩れで道が通行止めになって、3日間出勤できんかったんよ。こんなに雨降るなんて知らんかった〜!ってビビったし、自然の脅威を感じたね。
あと、雪が積もるなんて想定してなかった。和歌山は暖かいイメージだったから(笑)。
まぁ、それでも2011年(紀伊半島大水害)までは割と気分良く過ごせてたかな。
ー2011年の被害状況はどんな様子だったんですか?
孝夫:床上50センチまで浸かった。避難所も水害があるかも知れない、って言われて、少し高台にある家に避難して寝泊まりさせてもらってた。
ーその後の復興はどうされたんですか?
孝夫:近所のみなさんが手伝ってくださったよ。
豊子:田尻地区は畑の被害はあったけど、家の被害があったのはうちと隣3軒だったから、地区のみんなが助けに来てくれた。あの時は本当に助かったな。
孝夫:そうね。毎日、ひたすら掃除と洗濯してたね。
豊子:そうそう。でも毎日掃除してるのに、細かい砂が取り切れなくて残っちゃう。未だに残ってるから、風が吹いたらホコリが舞ったみたいになるんよ。
孝夫:当時、まだ地区に簡易水道があったから、地域の人が僕らが使えるようにしてくれた。そのおかげで洗濯したり、トイレの水も流せた。ホンマにありがたかったわ。
ー移住されてから自然の素晴らしさと厳しさの両方を体験されているんですね。
パン屋開業のきっかけは物々交換から
ーパン屋はどんな経緯で始めたんですか?
豊子:初めからパン屋をやろうと思ってたわけやないんよね。
大阪に住んでる時、パン教室に通ったんだけど、長女がアトピーだったから天然酵母のパンも作ってみたい、と思って。家では酵母菌から手作りして天然酵母のパンを作ってた。
子育ての合間にパンを作るのが大好きだったから、移住してからもパン作りは続けてて。たくさん作ってお裾分けしたら、野菜をもらえたりして物々交換みたいになった。ある日「お店やったらどう?」って言われたんよ。
「え?店?!私にできるかな?」って思ったんだけど。思い切って、1999年にパンを焼くための工房を建ててお店を始めた。初めは量も少なくて、趣味みたいなパン屋だったけどね。
ー物々交換から始まって、周りのニーズに応えてパン屋を開業したっていう経緯が素敵ですね!お客さんはすぐに来ましたか?
豊子:ちょこちょこね。今まで宣伝ってしたことないんよ。でも不思議とお客さんが増えるきっかけが舞い込んでくる。
初めは、子どもが作文で「私のお母さんはパン屋です!」って書いてくれたのが噂になってお客さんが増えた。
2003年、末っ子の子育てに専念するために、パパもパンを焼くようになったの。教師を辞めたら収入は大丈夫かな?って少し不安だったけど。仕入れ値とか無視して適当に計算して。「イケるんちゃうん?!」って思った(笑)。
ー孝夫さんは、豊子さんのその意見を聞いて、イケる!って思えました?
孝夫:ぜんぜん(笑)。僕はまったくパンを作ったこと無かったし、今みたいに売り先が無かったからね。大きなオーブンとか買ったら、みるみる退職金が減ってった。
豊子:でも、そこに救世主が現れた。友だちが「SanPin中津(道の駅)に置いてみない?一緒に行こう!」って紹介してくれて。それから、今みたいにSanPinに置かせてもらうようになった。
孝夫:で、次の年にテレビや新聞・雑誌の取材がたまたま向こうから入ったおかげで一気にお客さんが増えた。まったく宣伝してないのに不思議なんだよね。
田舎暮らし紹介のテレビ取材の時、長女のアトピーのことが取り上げられて、天然酵母のパン屋ってことで電話が殺到した。あれはすごかった。
ー当時(2003年頃)は天然酵母のパンは珍しかった?
豊子:まだ珍しかったね。私はいろいろ試すのが好きだから作ってたけど、周りからは「天然酵母?何それ?」ってよく言われた。長女のアトピーがきっかけで、天然酵母のパン屋につながったんだから、ほんまあの子のおかげやね。
ー食を変えることで娘さんのアトピーは改善した?
豊子:良くなった。でも、もっと良くなったのは私やね(笑)。大阪にいる頃は目が三角になることもあったんだけど、日高川町に来たことで、自然の中で誰にも干渉されることなく、私も子どもも伸び伸び過ごせるようになった。私の性格が丸くなったから、子どもの体調も良くなったんだと思う。
ーみんなに良い変化をもたらしたんですね。お二人は移住されてよかったですか?
孝夫・豊子:うん、そうやね!良かったと思ってるよ。
日高川町、田舎移住を考えている人へ
ー田舎移住の良いところってなんだと思いますか?
孝夫:やっぱり人口密度が低いっていうのは田舎の一番の良さだね。車の渋滞が無いのは最高やね(笑)。
ネットと宅急便を上手く使いこなせる人なら不便さは感じへんと思う。うちは宅配サービスを利用してるから、スーパーにもほとんど行かないね。
豊子:都会にいる頃、冷蔵庫にネギが無くてちっちゃい子どもを連れてスーパーに買いに行ったことがあったの。その時、自分に違和感を感じたんよ。だって、ちょっと庭に植えとけば収穫できるものを慌てて買いに行くんだから。
孝夫:都会なら、すぐに買いに行ける場所があるしね。
豊子:そうそう。だから田舎に来て、価値観が変わった。見るものすべてが新鮮になって、感動することが多くなったな。
ー今だったら「ネギぐらい無くてもいいや!」って思えるでしょうしね(笑)。他に、これから移住を考えている人へのアドバイスはありますか?
豊子:災害を経験して思うのは、もっと気候や環境を知ってから住む場所を決めたら良かった、ってこと。私らはすぐに場所を決めちゃったからね。
住む場所を決める時、1年くらい日高川町を点々として色んな地域を住み比べるのもいいんじゃないかな?
孝夫:1年くらい賃貸で住みながら、それぞれの季節を味わって決めると良いと思う。
ー同じ地区内でも、ちょっとした日当たりや寒さの違いってありますもんね。
豊子:うん。あとは、やりたいことがあるならやりに来はったらいいって思う。畑をやるとかニワトリ飼うとか都会じゃできないことがあるから。今まで挑戦してこなかったことに挑戦するのもいいね。
孝夫:そうやな。ドラムやピアノを弾いても音が気にならへんし(笑)。
豊子:日高川町は星がキレイでしょ〜?都会じゃ見れないたくさんの星が見られる。今度は、天体望遠鏡が欲しいな、って思ってる!
ー日高川町の星の美しさは何度見ても飽きませんよね!やりたいことにどんどんチャレンジし続けてください!
安大孝夫・豊子さん
大阪府出身。結婚後は大阪府交野市に住んでいたが、田舎暮らしへライフスタイルを変えるために1993年に日高川町へ移住。1999年にパン屋「こむぎっ子」を開業。日高川町で4人の子どもを育て上げ、パン屋を営みながらゆったりと楽しく田舎暮らしをされている。
田んぼ横の細い道を進むと現れる、かわいいログハウス。そこに1999年創業、25年以上続くパン屋「こむぎっ子」があります。天然酵母など、体に優しい素材にこだわったパンは、県外からも足を運ぶほどの人気。「ここのパン以外食べられへん!」とご近所の方までも虜に。そんなパン屋を経営されている安大孝夫さん、豊子さんに移住のきっかけやパン屋開業の経緯を伺いました!